同世代たちへ
わたしは、
そしてわたしたち世代の何人かは、
「幸せすぎるコンプレックス」を持っていると思うのだ。
ふざけていると思われるかもしれないけど、本気で思っている。
だって。
生まれてこの方、
生死をさまようほど経済的に苦しんだこともないし
死にたいと思うほどに精神的に苦痛だったこともない。
欲しいと思ったものは、だいたい何でも手に入っていたし(それがバーチャルだとしても)
今までずっと周りの人には愛されてきたと、本気で思っている。
そしてこれからも、
「わたしは愛されている。」ということには揺るぎない確信があるし、
「たいていのことは大丈夫」という世界に対する能天気な信頼がある。
だからこそ、
「若い頃の苦労は、買ってまでしろ!」と言われ、苦労自慢をされても困ってしまうし、
なんだかちょっと苦労のない自分に劣等感さえ感じてしまう。
そしてたまに、外側からの圧力に負けて
引きこもりになったり自ら不幸を探しに行ったりして
ありもしない苦労を作り出しちゃったりもする。
それでもたいていの言葉の裏に隠された、
「お前は足りないんだぞ!」には違和感を覚えるし、
そもそもほとんどの言葉を「足りていない」とは受け取れないんだ。
(足りてないに自覚的ではなさすぎて。)
人が行動するとき恐れか愛の起点どちらかだとすれば、
恐れの起点が幻想でしかないことを、走り出してふと思ってしまうのだ。
だから、
欠乏感という恐れに駆り立てられても
行動しきって成果を出すなんてことはできないんだよ。
欠乏感だけでは、もう私たちは成長できない。
そんな現象が、少なからず世界で起きているんだ。
だって、足りないなんてことは幻想だと知っている。
自分の能力が足りない時も、世界の能力を持った人にいくらでも仕事がシェアできてしまうことを知っている。
ネットをのぞけば、自分が喉から手が出るほど欲しいものを「要らない」と譲ってくれる人がいる。
飢えている人がいるとしても、それは物がないからではなく分配の問題なんだということも、知っている。
ねぇ、”足りない”なんて嘘でしょ?って、
足りないんじゃなくて、分かち合っていないだけでしょ?って
どうしても思っちゃうの。
それでもみんなが「足りてない」を求めるから、
なんだか自分の内側に問題を無理やり作り出したりして鬱になってみたり、
外側にモンダイを作り出して解決しよう!とかって言い出してしまうんだ。
でも、その生き方が、悪いって言ってるわけじゃない。
だって、欠乏を満たす過程を経て、今があるのだから。
情報やモノが不足しているように見えていた世界には、
社会的に問題や不足を埋められる人が必要でしかるべきだし、欠乏を埋めることが社会の任務だったはず。
だから、足りないことを埋めることが悪いんじゃない。
ただ、私には合っていない、それだけなんだ。
「合っていない」ただそれだけなのに、
ありもしないトラウマを引っ張り出し、
大して関心もないシャカイモンダイに躍起になり、
それらに違和感を持ちつつも、どうしていいかわからなくって、
感覚を麻痺させて”欠乏感”によって生み出された社会の大きなうねりに、乗っかってしまうんだ。
それでも私はもう、
そんなありもしない欠乏感にドライブされるのはやめにしたいんだ。
だって、そんなことをしても私は周りの人と幸せになれない。
だって、そんなことをしたら私はまた新しいモンダイを生み出してしまう。
どんな時代に、どんな生き方をしたっていい。
正解なんて、どこにもない。
だから、声高に「これが正論です!」なんて叫ぶつもりはないけど。
それでも私は、
誰かと喜びを分かち合うために生きていきたいし、
それ以外のための成長は捨てても構わない。
と思っている。
私たち90年代以降の世代の役割は、私の役割は
喜びから生きるという生き方を大多数の人ができるよう制度と構造を整えていくこと だって思ってるの。
それが今まで紡がれたバトンを受け取って次につなげる方法だって思うから。
物質的にものが足りず、必死にその不足を埋めてくれた
私のおじいちゃんやおばあちゃん世代
お父さんお母さん世代
ひとまわり上の世代
そんな世代がいるからこそ、今がある。
ありがとうと思いながら、そんな世代の成功法に引っ張られることなく私たちの世代がなすべきことを生き抜きたい。
そんなことを思いながら今日も、
私と誰かの喜びのために朝目覚めたいし、
誰かに恋してたいし、
言葉を残したい。
あなたは、何を感じ、今どこにいますか?
もし同じようなことを感じている人がいるなら、
ともに生きよう。
仲間は、あなたのすぐそこにもきっといるよ。
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